創英学館
[講師プロフィール](講師)長谷川和輝|創価大学を卒業した僕が創英学館で働く理由。
更新日:2019年2月21日
一般的に大学卒業後は、企業に就職、公務員もしくは、大学院への進学が主流です。その中、どうしてこの道に進んだのか。
今回は、僕の短いながら紆余曲折した昔話を交え、講師として創英学館に務める想いを綴ります! 少し長くなりますが、最後までお付き合いください。
何をやらせても、積極性にかける
僕は、母親の勧めで小学校4年生から塾に通うようになりました。もちろん、勉強嫌いな僕が自主的に通いたいと言うはずもなく、母親の「和輝の友達も通っているから」などとそんな口車に乗せられたような覚えがあります。
当時、僕は4つの習い事をしていました。一つは塾。他にもバスケや空手、そろばん。
勉強が苦手で、かといって何か得意なことがあるかと言われればそんなものも特になく。そんな僕に打ち込めるものを必死に探してくれてたんだなと今になって母の気持ちに気づき感謝しています。(もちろん、当時は恨みましたが笑)
ともあれ、そんな僕は中学に上がってからもろくに勉強をせず、高校受験では先生から「ここしか行けないな」と私立の高校を勧められました。
高校入学後、通学に1時間半かかるため、部活には入らず、いわゆる青春は”帰宅部”仲間とゲームセンターや本屋などを転々とし、くだらない話をすることでした。
「何かが変わる」
そういう前触れさえもなく、大学受験を控えた3年生になりました。
創価大学を目指すきっかけ
高校受験もろくにせず、高校三年間も大した勉強をしてこなかった僕にいきなり突きつけられた「将来何がしたいか」という難問。
今の僕でさえ、将来どうなるのか分からないのに、当時の僕なんかが無い頭を絞っても何も出てこないのは目に見えていました。
高校3年の8月。
僕が通っていた高校は、大学の付属高校だったため、この頃には進路が決まっている子も何人かいました。周りが将来について話しているのを聞く中、先が全く見えない不安が常に付きまといます。
何かしなければ。と、書店に立ち寄り、大学の入試情報が載っている本を手に取り、どんな大学があるのか、ページをめくっていました。
どこも知らない大学ばかり。なぜか目に止まったのが『創価大学』。
「なぜか」というのは不適切かもしれません。小さい頃から創価大学のオープンキャンパスや大学祭に連れ出されていた母親の戦略通り。つまり、「当然」目に止まったのは『創価大学』と言うべきでしょうか。
さらに、創価大学のページを見て、「親孝行でもするか」を思ってしまったのです。ますます、母親の戦略通り。
とはいえ、「何かが変わる」きっかけを得ました。
受験の挫折
創価大学の公募で受けることを決めたため、英語の勉強を独学ではじめました。友達や国語を担当してくださった先生がサポートしてくださり、国語の授業中も休みの時間もずっと英語を勉強。
これだけ聞けば、受かりそう!なんて思われた方もいるかもしれません。ただ、ことはそううまく行きませんでした。
創価大学の受験を決意したものの、そのことを友達に言えずにいたのです。創価大学を目指す人にはよくある葛藤だと思います。しかし、ある日、創価大学を目指していることがクラスにバレてしまい、全員からバッシングを受けました。
「なんで、こんなことを言われなければならないんだろう。」この理不尽な事件をきっかけに勉強をやめてしまいました。
“不合格”
手元に残ったのは、自分の環境に対する憤りと喪失感でした。
センター試験、一般入試の挑戦もたくさんの人から後押しされましたが、創価大学の受験はせず帝京大学の指定校を希望しました。
帝京大学出願前日の夜。担任から一本の電話がきました。
「出席日数が1日足りなくて、指定校がだせない」
「そうですか。」の一言で電話を切りました。
周りは卒業後の、進路があるにも関わらず、僕には何も無い。怖くて怖くてたまりませんでした。
とりあえず、進む道が欲しいと創価大学の通信教育の出願書を取り寄せましたが、前向きになれず、結局出願をせず、卒業をしてしまいました。
創英学館との出会い
卒業後、SNSを開くと高校の友達の入学式や一人暮らし、新しい友達。僕だけが取り残されている。世界から切り離された感覚に。
次第に、胸が苦しくなり、病院にいくと「精神疾患」と診断されました。
ある日、お風呂から出ると母から「創価大学専門の塾があるから、ここに行こう」と告げられます。もちろん、「いやだ」ときっぱり断りましたが、母が強引に僕をそこへ連れて行きました。
そこで出会ったのが、創英学館塾長の中川先生です。
その時の僕の態度は最悪でした。何を聞かれても腑抜けた返事しかできず、もう一度戻れるなら自分をぶっ叩きたいくらい。
結局、力負けし創価大学を目指し浪人することになります。
受験を通して得られたもの
当初は前向きになれなかったものの、創英学館で友達に恵まれて、中川先生に支えられ徐々に創価大学に行きたいと思えるようになっていきました。
慣れない勉強にも必死に食らいつき、自分のできなさに落胆しながらそれでも、合格するという一点を目指して。
センター試験、一般入試共に不合格という結果になってしまいましたが、最後の最後、センター後期で創価大学法学部に合格することができました。
創価大学受験を通して、“合格”以上に得たもの。それは何も取り柄のなかった僕が唯一やりきったと言える“自信”でした。
創価大学は挑戦の場、学びの場、最高の友人と出会える場
大学入学後、今まで以上にたくさんの人たちに出会いました。先輩に見守られながら、時に指導をいただき、後輩は生意気ながらもまっすぐで、見習うことばかり。成長させていただきます。と素直に思えた4年間でした。
4年次には、カナダのトロントに留学し、苦手だった英語の克服に努め、職場の人から信頼されるまでになりました。ホームステイをしていたホストマザーは今でも電話がきます。
創価大学の看板を背負って異国の地で悠々に挑戦できたこと。それを日本から支えてくれた両親には感謝がつきません。
大学5年間(留学を含め)を振り返ると、何も取り柄がなく、何をしたいのかもわからないかった僕は、切磋琢磨できる友人に出会い、支えてくれる多くの方々のお陰もあって大きく飛躍したと実感しています。
ここで大学で挑戦したことをまとめさせていただきます。
1年生
一万文字の論文(小型武器の軍縮について)
紛争地の研究とプレゼン
NY・BT研修
2年生
紛争地の研究グループの副リーダー
部活動で創大祭に向けての全体リーダー
NY・BT研修
3年生
部員数約100名の部長
4年生
カナダのトロントに語学留学とワーキングホリデー
5年生
国連UNHCR協会にて広報部のインターン3ヶ月
留学サポート団体の執行役員
創英学館で働く理由
大学に入学後の挑戦の日々。これらは全て、あの本屋で創価大学を目指そうと決めたところからはじました。これまでの道のりには、どんなに辛くても僕のことを祈ってくれる母の存在。勉強ができなくても粘って支えてくださった中川先生の存在。一番近くで励ましを送ってくれた友人の存在。数え切れないほどの方々がいました。
僕の力だけでは、ここまで変われなかったと思います。
長くなりましたが、僕が創英学館で働く理由は、孤独に悩みを抱えている多くの受験生の力になりたいから。
変わることの難しさ、自分のことを出来ない人間だと思っていた僕だからこそ、伝えられる何かがある。そう信じています。
僕の成長録にたくさんの方がいたように、僕も誰かにとっての何かになりたいと思っています。
これからも徹して一人を支えていく決意です。創価大学で次の“僕”が大成長する未来を夢見てこれからも頑張って行きます!