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[講師プロフィール] (塾長)中川勇一は、なぜ創英学館を作ったのか?

更新日:2020年3月17日


創英学館塾長の中川です。僕がなぜ創英学館を始めたのか、今からお話しさせて頂きます。 最後までお付き合いいただければ幸いです。



おしゃべり好きはアイドルがきっかけ

小学生時代の僕は内気な性格でした。周りの友達に馴染めずに、不登校になった時期もあります。

しかし、小学校五年生の時に予期せず学級委員長に選ばれてしまいました。


学校に通うきっかけになったものの、人前で話すことが苦手で、嫌々続けている状態でした。

中学生の時は、目標も特になく勉強が大嫌いでアイドルグループの追っかけに時間を費やす日々。

同じようにアイドルグループの追っかけをしている仲間が沢山増えました。「共通点」を持っている仲間と過ごす楽しさをこの時に知り、自分の性格が明るくなったのを実感しました。

高校に上がると、なぜか名前順でまた学級委員長に。ただ、その頃には人前で話す事には慣れていました。

さらに、「人を笑わせるのが面白い!」と感じるようにまでなっていたのです。このころの経験があったから、人前で話すことが好きになったのだと思います。


人は人で変わる

通っていた高校は自分の学力で入学できる偏差値30台の高校でした。しかし、そこで出会う数学教師との出会いが人生を変えることになりました。

決して偉そうな態度を取ることはなく、生徒の事を真剣に考えてくれる先生。授業も、笑いながら自然と知識が身についていくような授業をしてくれました。


「先生に喜んでもらいたい」


その思いが結果に出てきました。問題が解けるようになっていくにつれ、数学が面白くなっていったのです。

真面目に勉強に取り組み、中学生の時には成績が1や2だった数学の成績がクラスでトップになるまで成長していました。

「こんな自分でも努力すればできるようになるやん。」


この経験が、どんな子でも成績を伸ばすことができると思える根拠となりました。


音楽活動に明け暮れた青春

しかし、担任が変わってからモチベーションが下がりはじめました。さらに、バンド活動を始めたことをきっかけに勉強もしなくなり、成績が急降下。

大学進学は一切考えず、高校卒業後はミュージシャンを目指し音楽学校に通いました。それからしばらくして、一緒にバンドをやっていた友達がプロを目指して、上京していきます。

自分も一緒にプロになる夢を叶えたいと思って、後を追って上京することを決意。

精神的に強くなりたいと思い、大阪から約500キロの道のりを自転車で目指しました。最初は4日間で東京につく予定でしたが、3日目に台風が接近していることを知り、仕方なく3日目に東京に行くことになってしまいました。

必死で自転車をこぎ続け、東京に到着したのが午前3時。へとへとでしたが、自分の中ではやりきったという自信にあふれていました。

もちろん、自転車観光が目的ではないので、すぐさまプロを目指しバンド活動を開始。


しかし、順風満帆とうまくいかず。現実は、滑走と目標に向かって走る自分ではなく、他人の才能に圧倒されている自分でした。

曲を作ろうとしてもいいメロデーや歌詞が出てこない自分が嫌になってきました。そうして、夢半ば自分の実力のなさを実感しバンドを脱退しました。


アメリカ横断で大きく前進!

それから、しばらくの間、何も無い自分に不安を感じる日々。しかし、何度も逆境を味方につけ、成長してきたという実感からか「何も無いなら自分がやりたいことをやろう」と前向きに。

まず思いついたのが、「海外に行ったことがないから行ってみたい!」という単純なものでした。でもただ行くだけでは面白くありません。

私は、大阪から東京まで自転車で行った男です。アメリカ大陸を自転車で横断することを決意しました。それをやりきったら何かが変わるかもしれない。


アメリカ大陸横断に向け、体力づくり、英語力の強化、貯金を始めました。 そうして、決意から一年半後にカナダのバンクーバーに降り立ち、自転車でニューヨークを目指しました。

アメリカ大陸横断では、多くの試練が私を待ち伏せていました。

一番怖かったのは人間です。何度も車に轢かれそうになりました。ゴール地点のブロンクス(ニューヨーク)では危険な雰囲気を感じました。

しかし、一方で一番感動したのも人との出会いでした。応援のクラクションを鳴らしてくれる人、「家に泊まりに来いよ!」と言ってくれる人。また、様々な国籍の人と語り合いました。英語を学んでいたことで、本当に充実した旅になりました。

もちろん、体力の限界、悪天候の中での移動なども。パンクは8回経験しました。しかし、試練を乗り越えるごとに強くなっていく自分を実感。


そうして、77日後に自転車でニューヨークに到達しました。


英語教師としての中川勇一

帰国後、「英語ができたらこんなに人生が楽しくなるんだ。」と気付いた私は英語を教える仕事をしたいと思っていました。

しかし、大学に行っていなかった自分には無理だろうと思いながら、飲食店で働く日々を過ごします。

「何のために働いているんだろう…」 ずっと、やりがいの感じられない気持ちを抱えていました。

そんな日々に耐え切れず、「自分の人生を生きよう!」と大学に入学することを決意し、 創価大学(教育学部)の通教で学び始めました。

そして、今までの経験から自分の力でどんな困難でも乗り越えられると思い始めました。そうして、大学を卒業後に山口県の周南市に大学受験予備校創英学館を開校。

当時の私には塾で働いた経験も生徒に教えた経験もありませんでした。

あったのは「英語を教えたい。」という情熱だけ。

最初に入ってきた受験生は2名。二人とも浪人して大学を目指したいという事でした。

「大学受験生は受け入れてもらえますか?」という質問に

「はい。私に任せてもらえば大丈夫です。」と答えました。

実は、私自身が受験を経験した事がなかったので、センター試験が何かも分かっていませんでした。無知であったがため、勇んで挑戦できたのかもしれません。


二人の志望校は創価大学で、当時は3科目で8割が合格ラインでした。


「センター試験は基礎的な問題が出るから8割ぐらい取れるよ。」


と経験がないからこそ、堂々と語れました。

そして、試験の本番、二人とも見事に合格点に到達。それが全てのスタートです。二人がいたから今の僕がいます。二人には感謝の言葉しか出てきません。

それからは塾の噂を聞いた人が入塾してくださるようになり、塾を始めてから5年目に東京で塾を始める決意をしました。

鷹の台(小平市)に教室を開校すると決め、生徒募集を始めました。そして、ありがたい事に東京と山口で塾を出来るほどの人数が集まりました。

東京進出一年目は毎週東京と山口を往復。アメリカを自転車で横断した私でも、この移動は体力的にも経済的にも持ちませんでした。

やむ追えず、上京2年目に山口の教室は閉校し、東京だけに専念することにしました。


ありがたくも、そうする事によって生徒さんがどんどん増えていき、15年間で300名を超える受験生を指導させていただきました。


2017年には創価大学の合格者が100名を超え、ますます活気付いています。


これからも創価大学受験生のために、講師一同全力受験生を応援して参ります。


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塾長の著書 〜電子書籍〜

『大学受験をしたことがないのに予備校を始めました』

著者:中川勇一



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